ご感想 8

 匿名さま

今日の朝、大きな気づきがありました。


さいきん、自分が無意識にいろいろなことに抵抗してる(事実と違うことを望んでいる)ということに気づいて、日常で意識的になっていたのですが、そのひとつに「自分のからだ、体力」に対し、ものすごく不満を持っていたことを理解したのです。


体力がなくすぐに疲れてしまうことや、アレルギーや、体のあちこちの痛みについて、心中嘆いてばかりいました。

 

とはいえ、その気付きがあったからといってすぐになにができるというものでもなく

とりあえずセッションに出かけました。

 

広々としたセッションルームの片隅にはいつものように祭壇のようなスペースがあって、清らかな花の写真や小物が飾られていました。

それを見て、ハリマンさんがセッションをとても大切にされているのを感じました。

 

前回同様、自分の体のほぐし方から教わりました。

同じものもあったし、違うメニューもありました。


この前と違って、今日はなんだかとても集中できました。

あんまり思考がなく、ただハリマンさんの指示通りにいい意味で機械的に手や足や身体を動かしているのが心地よかったです。

 

印象的だったのは、骨盤を回す動きです。

「○○瞑想」と何か名前があったのですが、忘れてしまいました。


とにかく、骨盤を回すのですが、その中に光の玉があって、骨盤を鍋に見立ててその玉で磨いてく……というような感じでした。(違ったらすみません)

 

やっているときはただ気持ちよい感じでした。


終わって「どんな感じですか?」と聞かれたとき、


言葉では表せなかったので「きらきらしてます」「池の水面に木漏れ日がちらちらしてる」とか変なことを言ってしまいましたが、


あとから考えてみるととても清らかな感じ、

何か大きなものにいだかれているような感じでした。

 

それから体ほぐしをしてもらいました。

ハリマンさんはどんな部分に触れるときでも、なにか壊れやすいもの、大切なものを触るようです。


「体」というものを、自分のものであろうと人のものであろうと、いとおしむ人なのだと感じました。


普段自分の体を触るときには、たとえお風呂上りにオイルやクリームをつけるときでも、こんなに優しくしてあげたことはないと気付きました。


途轍もない安心感、くつろぎのなかにいました。スゴイ「委ね度」でした。

長い間、眠っているときですら、こんなに安心し、くつろいだことはなかったような気がします。


唐突ですが、人を信じるということはこういうことなのかと突然頭に浮かびました。

 

そして揺すられたり、力をいれて息を入れて、はいて脱力などを繰り返しているうちに、体が空だということに気づきました。


私の体は空間で、私というものを全部受け入れてくれている。

宿してくれている。


そのとんでもない優しさ、温かさを感じました。

空(くう)にいのちがあらわれていると、感じました。

 

途中ですごく、体じゅうを血液というか、エネルギーといか、気というかが、滞りなく流れている、めぐっているのを意識しました。


せき止めるものがないと、こんなによどみなく流れるのだと気付きました。

 

帰ってから気づいたのですが、私は小学校高学年のころ、骨盤だけが急に大きくなりました。


クラシックバレエを習っていたので、レオタードになると、骨盤が飛び出して、ものすごくぶかっこうに見えて嫌で嫌で泣きたかったのを覚えています。


それ以来、自分の腰や骨盤(の形状)をずっと不満に思っていましたが、それに気づいていませんでした。


その形状への不満がいつしか、痛みや動きの悪さや硬さへの不満になり、ずっと無意識に攻撃していました。


自分としては、それを治すために、リハビリや体操を習ったり整体にいったり、ケアの仕方や姿勢矯正を習いに行ったりして努力をしてるつもりでした。


だけど、よく考えてみたらそれは全部「治したい」「矯正したい」ということでした。

今の体を受け入れるのではなく「変えたい」と思っていたのでした。

「このままじゃだめだよ」と言い続けてきたんですね。


もしかして今骨盤や腰に不調があるのは、そのせいもあるのかもと気づきました。

 

私は体について不満ばかり持っていたのに、体は私を宿し、育んでくれていました。

私は体にいとおしまれていました。

 

自分の体をいとおしむ。

ということは、自分を愛することの第一歩なのかもしれません。


今日はハリマンさんの、体や命への優しさ、慈しみに触れ、自分をいとおしむということを思い出させていただきました。


夕飯のしたくをしながら、なぜか何度も涙が流れて止まりませんでした。

これを書いている今また涙と鼻水が止まりません(笑)


今日はありがとうございました。




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Harimanより


今までの「私」を超えた、「大きな健やかな流れ」としていらっしゃるようですね。

 感想をいただいてから、ふと思い出して棚から本を取り出しました。


タイトルは『問題は解決するな』(kan.さん)、『いのちの力』(私が最初にたいへんお世話になったヨガの先生・望月勇さん)、『からだに貞く』(haimanのからだほぐしのoriginal(源)・野口三千三さん)。

 

 どれも、「私」を超えた命(「個」を生かし育んでくれている自然・宇宙の摂理)への信頼(気づき)がおおもとにあるような気がします。


 

野口三千三さんが以前教えてくれました。

「『貞く(きく)』『貞』とは古代『占う』ということだった。その意味は私的な未来を予想するというものではなく、

 自然・神の摂理(真実)に問うてみる、そしてそれにお任せするということだ」と。


 そして、「『信頼する』『信(信ずる)』ということは・・・負けて・参って(降参して)、任せて、待つ・・・ということだ」と。

 


いただいた感想で、不思議に三つのタイトルがつながりました。

『問題は解決するな』(抵抗するな)、『いのちの力』に『貞』け。

 

自分が自分だと想っている「私」も一つの「枠」であり、「身体」「こころ」「頭」っていうのも一つの「枠」であり・・・


(「私」「身体」「心」「頭」と分ける捉え方は、やわかくて大きい健やかな「本流」(宇宙の摂理)とは少しだけズレれているような。それはそれでとても愛おしくもあります)


それを超えた「まるごとのからだ(自然)」っていう視点がぼくは好きです。

 

それは匿名さんがおっしゃったみたいに、すべて神の摂理(自然)によって 空 から現れてきたのでは、と。

(すみません。ハリマンのフィルターを通って違う意味合いになっているかもしれませんね)

 

「私」とは、「私」を超えた大きな力によって守られ、導かれ、育まれ、ひらかれているように想う時があります。

 

そして、それが本来の自身だとも。


ありがとうございました。